自己啓発をやめて哲学をはじめよう本pdfダウンロード

自己啓発をやめて哲学をはじめよう


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自己啓発をやめて哲学をはじめよう の詳細

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1はじめに、本書の立ち位置を確認することから始めましょう。著者自ら[終わりに]で書かれているように、本書がなぜ「自己啓発書で有名な」フォレスト出版から出版されているかと言えば、昨今の「哲学・教養系の自己啓発書ブーム」という文脈に沿うものだからです。それが言わば、本書の成立条件になっている。もちろん、それだけを理由に本書の価値を貶めるのは不当でしょう。流行に乗っているだけと見せかけて、その流行に対してカウンターパンチを浴びせるような作品が現れることもあるのだから。ただ、そのようなブームが存在するということは、哲学や教養を言わば「自己啓発書の1ジャンル」として消費する文化が既に成立しつつあり、本書もまさしくそういう意味で「自己啓発書として」読まれ、「自己啓発書として」機能してしまう可能性が、確かにあるということは、留意すべき点だと思われます。実際、他のレビューを見ていても、ほとんど自己啓発書と区別のつかないような賛辞が並んでいて、皆が本書、或いは哲学に『救い』のようなものを見出してしまっているように見えます。恐らくは、これまで自己啓発書に幾度となく見出してきたのと全く同じ『救い』を・・・。言い換えれば、「これまでは『救い』を求めて自己啓発に励んでいたけれども、これからは『真実』を求めて哲学に取り組む。」と宣言しつつ、或いは自分でもそう思い込みつつ、実際には今まで自己啓発に求めていたのと同じものを、引き続き哲学に求めてしまっているように見えます。『救い』や『希望』や『成功』を、『真実』という新たな名で呼ぶことにしただけであるように・・・。・・・2なぜそうなってしまうのか。著者も本文中で何度か「自己啓発と哲学は実は似ている」という点を指摘していますが、実際『知を愛する』という点に於いて両者はかなり似通っており、「その先に『成功』を期待しているか否か」という一点に於いてのみ両者は異なると言ってよいでしょう。そうなると、自己啓発の熱心な読者が『成功への期待』を隠蔽する形で、すなわち「その先に『成功』を期待してはいないと、表面的には『公言』する」という形で、自己啓発から哲学に『乗り換え』を行うことは極々自然なことだと言えるでしょう。・・・3そのどこがいけないのか。そのような形で哲学に『期待』することが本当に「哲学的態度」と呼べるのか、という問題もありますが、より深刻な問題は、その『乗り換え』は結局のところ期待を裏切る結果になるだろうということです。そもそも哲学は彼らが求めるものを、提供しようともしていないのだから。そんなお門違いの期待には応えるつもりもないのだから。「自己啓発をやめる」というのなら、「自己啓発的態度によって哲学に向かうこと」もまた断念しなくてはならない。すなわち「救いを求めずにはいられないようなこの人生から、自分を救い出してくれるような何かがきっとある」という思考・・・「なにか隠された真実を知ったり、特別な体験をしたりすることで、人生を一発逆転できる」という、既に、決定的に、「自己啓発的な思考」・・・それ自体を捨て去らなければならない。なぜなら「自己啓発書の読者たちが、(少なくとも現時点では)『成功』していないのは、『成功』している人々が知っていることを知らないからである。」というその思考・・・その「知⇒成功」の帰属こそが、自己啓発書の読者が知らないうちに同意させられている「信仰」に他ならないのだから。『知は成功を約束したりはしない』・・・それが事実なのではないですか?逆に、『無知は失敗を宿命づけたりはしない』・・・すなわち、(自己啓発書の読者が心配しているように)ある自己啓発書や哲学書を読んでいないこと、『成功者』がどのように考えているかを知らないこと・・・そのような『無知』が原因で『失敗』するのだという主張は誤りである。そう言えるのではないですか?・・・4すぐにでも反論が聞こえてきそうなので、より厳密に話しましょう。『知は力なり』は100%の誤りなのか。そうではない。私が言っていることはそういうことではありません。そうではなくて、「すべての成功/不成功=勝敗が『知』によってのみ決定されている」という世界観が誤りであると言っているのです。「宝くじは買わなければ当たらない」ことを否定しているのではなく「宝くじを買えば必ず当たる」という主張を否定しているのです。「『成功』している人は、場合によっては『失敗』している人が知っていることの多くを知らないし、彼や彼女の『成功』は、そんなことによって決まったわけではない。」・・・彼や彼女が執筆する自己啓発書の中で、「私が成功したのはこのことを『知っていたから』である」という『無知』を披露しているにもかかわらず、彼や彼女が『成功』しているということが、(逆説的ですが)『知』の『成功』に対する無効性を裏付けているのではないですか?・・・5それでは、『知』以外の何が『成功』を約束してくれるのか。何も。或いはあったとしても、それは我々が期待するようなものではない。それは「既に周知の事実となっているようなもの」に過ぎないか、「知ったとしても後天的には操作しようがないもの」に限られてしまう。(前者は例えば・・・身だしなみは整えて、マナーを守り、人とは友好的に接し、よい大学を出ること、等々。後者は例えば・・・生まれや育ちになるでしょう。)・・・6同様に、自己啓発書でよく言われる「読んでも『行動』しないから『成功』しないのだ」という言説もまた、多くの場合、敬虔な「信仰告白」以上の意味を持っていない。自己啓発書が言うところの『行動』はまさしく「宝くじを購入すること」でしかないのであって、それは『成功』を・・・この際はっきり言ってしまえば「金持ちになること」を・・・保証しているわけではまるでない。にもかかわらず、読者の『行動』に『成功しないこと』の原因を帰するような発言をするのであれば、その語り手は『行動したのに成功していない』読者に対する責任を負うのでなければフェアではないでしょう。・・・7だとしたら、どうすればよいのか。自己啓発から哲学に『乗り換える』方法がうまくいかないとすれば、『知』以外の何者も『成功」を約束しないのであれば、他に何が可能なのか。私が書いていることも、また1つの『知』に過ぎず(そう呼べるほどのものでもないかも知れません)、これを『知る』ことによって読んだ人の『成功』が約束されることはない。『成功/失敗』をめぐる競争に於いて有利になることすらも、恐らくはないでしょう。少し唐突に切り出しますが、自己啓発が犯す罪の1つは「『成功するための条件』として提示している『知』が嘘であること」・・・すなわち「『問い』に対する『答え』が誤っていること」なのですが、更に大きな罪がある。それは、「読者の抱えるあらゆる問題、あらゆる不満の原因を『成功していないから』としてしまうこと」・・・すなわち「読者のあらゆる『問い』を、『どうすれば成功できるのか』という誤った『問い』に変換してしまうこと」にある。その二重の嘘にある。自己啓発書の読者にも様々な人がいて、恐らくは様々な問題を抱えているでしょう。しかし、その中のどれだけの人が『成功』が必須であるような問題を抱えているのか。一度立ち止まって思い出さなければならない。そもそも何がきっかけで、彼や彼女は『1冊目』を手に取ったのか。『成功』や『人生』という言葉の抽象的な大袈裟さと比較すれば、もっとずっと具体的な、些末で矮小な問題がきっかけだったのではないか。実のところ、彼や彼女の問題を・・・もちろん、張本人にとっては抜き差しならない大問題を・・・『人生に関わる一大事』にまで(大袈裟にも)引き上げてくれること・・・それこそが彼や彼女にとっての、自己啓発書の一番の、そして唯一の『効能』なのではないでしょうか。その『効能』を求めてこそ、彼らは2冊目3冊目も手に取り続けることになる。そのようにして、自己啓発書は彼や彼女の個人的な問いの代わりに『成功するかどうか』という新たな問いを与える。すなわち、自己啓発書とは、「問いの解き方を与えてくれる書物」ではなくて「より見栄えの良い問いを与えてくれる書物」であると定義できるでしょう。であれば、結論は以下のようになる。すなわち、「自分がかつて抱えていた『問い』を取り返すこと。それを元あった大きさにまで、再び矮小化すること。そうすることで『成功≒自己啓発≒哲学』を、もはや必要としなくなること。」・・・これこそが『自己啓発をやめてするべきこと』であると。・・・8さて、ひとまずの結論はでました。とは言え、『成功』が必要なくなったからと言って、問題が矮小化できたからと言って、それが簡単に解決できるかというと、恐らくそうではないでしょう。しかし考えてもらいたい。それは、少なくとも取り組まなければならない問題、取り組む価値のある問題です。つまり、少なくとも『成功』のように、本来目指す必要もなかった目標ではない。『成功』のように、ほとんど不可能に思える目標ではない。そもそも『人生に関わるほどではない問題』の多くがそうであるように、それは場合によっては適当にやり過ごすことも可能な問題かも知れない。実際、自己啓発に取り組んでいる間、それは放置されていたのではないですか。やっと取り戻すことのできた『私たち自身の問題』に、少しずつ取り組んでいきましょう。長文失礼いたしました。・・・9著者ご本人からのコメントがあり、自分の文章のわかりづらさを自覚しました。ですので補足として、私の意見を出来る限り単純化して以下に示したいと思います。a.仮に、自己啓発をタバコ、哲学をニコチンガムに置き換えます。(「哲学はニコチンガムなのだ」というのが、既に私の主張の1つであり、上記の1~3がそれに当たります。)b.禁煙のためにニコチンガムを噛むことは、確かに害は少なくなるし、良いことなのかも知れません。周囲も安心するでしょう。c.しかし、それで今度はニコチンガムに依存してしまったら、「何かに依存≒期待していること自体の苦しみ」はそのままになってしまいます。できることなら、「ニコチンガムにも依存しない≒哲学すらも捨てる」ようになれれば最高ですよね。d.禁煙は確かに難しい。けれども、世の中にはタバコを吸っていない人も大勢いるし、喫煙者も生まれつきタバコを吸っていたわけではないのだから、禁煙は(難しいけれども)不可能とまでは言えませんよね。e.幸か不幸か、喫煙者も元々なにか「しんどいこと」があってタバコに依存しているわけだから、そっちを解決すればそもそもの原因を断てますよね。(「自己啓発の読者も、何か具体的な原因やきっかけがあって自己啓発に手を出したはずだ。」というのも私の主張の1つであり、上記の7がそれに当たります。)f.元となる問題を解決するのも難しいかも知れませんが、少なくともそれは、「何かに依存することで、余分に与えられていた問題」ではなくなったはずです。お互い楽な道ではありませんが、頑張りましょう。・・・10当初、このレビューを投稿した時点では盲目的に見える高評価レビューが並んでいたため評価を星2つにしていましたが、徐々にただただ感情的で的外れな低評価レビューが増えてきたため(それらのレビューには全く同意しかねるため)、評価を星3つに修正しました。

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